藤田水産・水産業の歴史

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藤田水産の歴史〜創業から現在までの歩み〜

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先々代長作氏が、にしんの「たてあみ」をしてたころ、終戦より帰郷した正氏が家業を手伝いながら前浜で漁獲される魚に注目、昭和28年鰊の一次加工で創業。

昭和33年頃より姿を消したにしん加工に代わり、ホッケ、カレイ、ガヤ、スケソ、ナマコ、桜貝、ウグイ、イカ、タコ、鮭等何にでも挑戦し「ふじたのたこくん」の基礎をつくる。

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今現在、タコを主に、イカ、鮭の珍味類を生産している。
珍味の藤田水産の地名度アップに大きな役割を果たした「一杯だこ」は昭和38年先代のアイデアで製品化された息の長い逸品。
当時棒くん(たこ足の丸ごとの燻製品)にならない小さいタコに着目、タコの姿そのまま燻製に仕上げた。

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現在は、消費者ニーズも少し変わり「ひっぱりだこ」(たこの足を縦長に薄くそいだ商品)や「かしら」(たこの頭を1cmぐらいの幅に縦長にした商品)など干製品が主流。
2、3年ぐらい前から「一杯だこ」の他「たこ足」「たこ頭」「たこ棒頭」「たこ頭ロール」といったほどよくスモークした製品も徐々に復活してきている。

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環境問題もあり、廃棄物(残渣)の処理料がままならない現代、たこの皮、たこのまぶた(目の廻り)、たこトンビ(口)といったところも製品化。
たこの皮はブラックペッパー使用した癖になる味でなかなかの好評、是非ご賞味下さい。

創業以来、小さい会社なりに時代とともに変化する消費者ニーズに応えるべく歩んでまいりました。今後も、これまでの信頼を守り続けお客様に満足の頂ける製品作りに邁進してまいります。

水産業の歴史〜北海道の自然の恵みを受け育まれた水産業の歩み〜

江戸

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モルルモッペ(留萌)場所で請負人(うけおいにん)が本格的な場所経営を始めたのは、寛延(かんえん)3年の初代村山伝兵衛 (むらやまでんべえ)からで、天明(てんめい)7年に6代栖原角兵衛 (すはらかくべえ)が請負人になり、代々栖原家の請負場所になった。
ニシンが運上金(うんじょうきん)の主役になるのは、天保(てんぽう)11年のハママシケ(浜益)以北のニシン出稼ぎが許可されてから。
留萌最初のニシン出稼ぎは、記録に残っているものでは弘化(こうか)元年のレウケ(礼受)の佐賀平之丞(さがへいのじょう)。漁獲したニシンは身欠(みがき)ニシンと肥料用の魚粕(ぎょかす)が主体で、弁財船で近畿や東北地方へ運ばれた。

明治

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明治2年、政府は開拓使(かいたくし)を設置し、この年8月には蝦夷地(えぞち)を北海道と改めた。9年にニシン漁場が開放され、10年には留萌の漁場は礼受(れうけ) 31ヶ統(かとう)、留萌30ヶ統、三泊(さんどまり)51ヶ統に急増した。
19年に肥料魚粕(ぎょかす)荷造法を定め、まちまちだった1俵の重さを正味20貫目(75kg)とした。20年になると留萌村、礼受村、三泊村漁業組合が設立され、留萌戸長(こちょう)役場内に事務所を設置した。この頃の漁夫の雇用期間は2月20日から630日まで、角網(カクアミ)1ヶ統30人、平均給料は26円。ニシンの主力製品は身欠(みがき)ニシンと肥料用の魚粕。西洋型の大型汽船が、弁財船から主役の座を奪い、木製ではあったがニシンの陸揚(おかあ)げに起重機(クレーン)が登場した。

大正

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道内では明治末から大正初期にかけて漁獲量が比較的安定していたが、6年以降久遠、熊石のニシン来遊が途絶したのを皮切りに、9年に瀬棚、11年に島牧、13年に松前の来遊が途絶したことで、後志、留萌地方がニシンの重要な生産地になった。
昭和に入ってからは約40%を占めるようになる。不漁で経営が特に悪化したのは建網(たてあみ)の漁場で、大正12年に道内2,301ヶ統(かとう)あった漁場の数が、昭和12年には1,360ヶ統にまで減少した。一方で大正5年以降、漁場の仕事着に軍手、女性のモンペなどが出現し、作業時の服装に変化が見られた。

昭和

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昭和の時代は、ニシン漁の終焉 (しゅうえん)の時代として記憶されている。
4年に後志以南、7年に積丹以南の漁獲が皆無となったが、この頃の留萌地方は豊漁が続いた。昭和はニシン漁の激動の時代で、来遊途絶の地域が広がる一方魚価の暴落、建網(たてあみ)漁業者の負債増大などによって、ニシン漁は建網と刺網 (さしあみ)の両輪で回ってきたが着業者が減少の一途をたどった。
6年に岩内、枝幸の建網業者が中心となって合同漁業株式会社が設立される。留萌地方でも約半数の建網が参加して、経営の合理化を図ったが、21年に解散した。
ニシン漁場を変えたものがあった。それは昭和初期に出現したゴム製品だった。ゴム長靴、ゴムの手袋、胴付き、特長、ゴムカッパなどは漁場で働く漁夫や女性たちの必需品となった。

留萌地域の漁獲量

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明治20年以降、留萌管内のニシン漁獲量は、最高が36年の19万7千石、次いで35年の19万3千石で、2年続きの豊漁。 凶漁年は43年の5万3千石。それ以外の年はいずれ10万石を超え、比較的安定した漁獲だった。
明治のニシン定置網(建網たてあみ)漁は、20年代に行成網(ユキナリアミ)から角網(カクアミ)に替わる大変革が起きた。
大正時代は、5年以降にモンペや軍手が出現した。14年の22万2千石が最高で、6年の4万5千石という凶漁もあった。
昭和時代の初期には長靴、カッパなど多くのゴム製品が出回り、漁場の生活が大きく変化した。
漁獲量の最高は8年の23万8千石で、6年から9年まで4年連続の豊漁を記録した。一方では13年の5千6百石が最低で、11年から3年続きの大凶漁に見舞われた。以降ニシンの終焉(しゅうえん)を迎える30年まで豊漁と凶漁を繰り返し、30年は1万5千石の大凶漁に終わった。

※1石 約 750kg。
当時の3,4年生ニシンで約2,400尾に相当し、汲み船(くみぶね )1隻が満載で約10石といわれていたので、7,500kg(7.5トン)が積まれていた。